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2007.9.5

★作曲家にとって、作っているメロディに自分の「持ち味」をどのように入れ込むかが、常に課題となる。その持ち味は(メロディだけでなく)和声となって現れることもあるし、リズムであることもある。もちろんもっと大きく、メロディラインの特徴になることもある。曲にその持ち味をうまく取り入れられれば、それが作曲家にとって「肥やし」になる。そして一度書いた、充分に持ち味の生かされたメロディに、作曲家にとっての満足感が得られてしまえば、もう2度と同じ持ち味で書きたいとは思わないだろう。(いつも同じスタイルで満足できれば別だけど。)

その逆は極めてしんどい。持ち味を生かしたメロディをスケッチしておきながら、それを何年も放っておいたとする。そのメロディ自体は存在すら忘れていても、賞味期限内の「持ち味」はいつまでも自分の脳裏に残っている。だから、一度思いついた「持ち味」が、恨み節のように、何度も頭の中によみがえる。その度に、あーこんなメロディ、前にも書こうとしたことがあったなと、自分の中の音楽の「不燃物(ゴミかなあ)」に思いをはせるのだ。

そう、その思いを形にしてやらないかぎり、いつまでもシコリのように自分の中に残る。吐き出しきるまでは死ねない、それが全ての作曲家の願いだろう。

2008.6.24.                   竹内淳

★今作曲していて思った。

クラシックはなぜ歴史に残っているのだろう。
それは、全ての音が「厳しい」取捨の中から、やっとの思いで残されて来た音だから。作曲家にとってこれしか無い、という必然的なただ1つの音を、連綿と「これしか無い」方法で、自身の感覚で、渾身の思いを込めて紡いでいったものだから。思いつきを、あるいはピアノでぱらっと弾いたものを、考える手間を経ずにそのまま譜面に起こしていって、定着させる事の出来る人は、いわゆる天才。

普通はこれでもか、これでもか、というくらいに、自分の音をどこまでも追求する。一種の求道者だ。一度始めると、面白くてやめられなくなる、とはいえ、定着する音をどこまでも見つけていくのは、はっきり言って辛い作業でもある。心がこそげ落ちていく、はぎ取られてしまうように感じる事さえある。だから、残った音たちは、「厳しい」ものなのだ。生き残った音、といえる。

シューベルトの「死と乙女」冒頭。厳しい、よね。恐いくらい。もしかするとこの厳しさが嫌で、この一節で「死と乙女」を聴かない人だっているかもしれない。同じ事は、ベートーヴェンの「運命」だって当てはまる。冒頭は誰もが知っている。でもその後は、「聴く気にもならない」人がいたっておかしくない。それくらい、音が「厳しい」。
他のところで、クラシックがBGMにならないと書いたが、BGMには、その厳しさ故に、「なれない」のだ。

実は、クラシックだけではない。ポピュラーだって、ジャズだって、はたまた街なかにいる技術者だって、落語家だって、スポーツマンだって、プロフェッショナルな人は皆、その厳しさを知っている。故にプロなのだ。ただし、そこに至るまでにはもちろん努力が必要だが、もう1つ、厳しさの「お手本」が身近に絶対に必要である。それゆえ、クラシックをやっている人は、例えばシューベルトの「死と乙女」を聴いてみるがいい。それを心から感動し、理解できたら、音楽をする上で必要な何か(厳しさにつながるもの)が見えてくるかもしれない。音楽家は、そういう耳で、音楽を聴く事があっていい。

まあ、ジャズの人に無理にクラシックを聴こう、などとは言えない。でもその人たちだって、理想的な「厳しさを」聴く事の出来る、「師匠とも言えるような」演奏家が必ずいるはずだ。

私が敢えて「クラシック」を聴く事を推奨しているのは、そのような「厳しさ」を教えてくれる素晴らしい例が、簡単に数多く手に入るから、というのに過ぎない。

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竹内淳の…やわらか音楽分析

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作曲家の独り言

竹内淳

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